CONLON NANCARROW
コンロン・ナンカロウ
Конлон Нэнкэрроу
Study for Player Piano No. 37
source: kylegann
The expatriate American experimentalist composer Conlon Nancarrow is increasingly recognized as having one of the most innovative musical minds of this century. His music, almost all written for player piano, is the most rhythmically complex ever written, couched in intricate contrapuntal systems using up to twelve different tempos at the same time. Yet despite its complexity, Nancarrow’s music drew its early influence from the jazz pianism of Art Tatum and Earl Hines and from the rhythms of Indian music; Nancarrow’s whirlwinds of notes are joyously physical in their energy. Composed in almost complete isolation from 1940, this music has achieved international fame only in the last few years.
Born in 1912, the son of the mayor of Texarkana, Nancarrow fought in the Lincoln Brigade, then fled America to Mexico City to avoid being hounded for his former Communist affiliations. The author travelled to Mexico City to research Nancarrow’s music and to discuss it with him. He analyses sixty-five works, virtually the composer’s complete output, and includes a biographical chapter containing much information never before published.
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source: soratobuniwa
コンロン・ナンカロウは1912年、アメリカのアーカンソー州テクサーカナ市に生まれた。父親は、後にこの市の市長になる土地の名士。16歳で地元の大学に進学する早熟な若者が熱中したのは、まずはジャズであった。ナンカロウはヨーロッパに旅行をした際には、道中でトランペットを吹き、旅費を稼いだこともあったという。そして、音楽への情熱が高まる中、シンシナティの音楽院へ進学、ここで衝撃的な出会いを果たした楽曲がストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」であった。
ストラヴィンスキーといえば、20世紀の前半の音楽界において、リズムに関する並ぶもののない探求を行った作曲家として、誰もがその名を知る存在である。ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」の冒頭では、4分の2拍子と8分の7拍子が同時進行する箇所がある。これなど、クラシック音楽の中で最も鮮やかにポリリズムを使った例の一つといえるだろう。4分の2拍子で進んできた音楽の中に、突如8分の7拍子のフレーズが載せられることで、音楽が一気に多層化され、一種の訛りのようなものがもたらされる。「春の祭典」は、こうしたストラヴィンスキーの指向をさらに推し進めた、全曲が精緻かつ躍動感に溢れるリズムの饗宴たる音楽。これに衝撃を受けたがゆえにナンカロウの人生は決まった。
リズムの探求を主テーマとして作曲を続けていたナンカロウはさらにボストンの音楽院に通い、音楽面での研鑽を続け、同時に-理想主義のブルジョワの若者によくあるように-共産主義に傾斜することになった。さらには義勇軍に入ってスペイン市民戦争へと参戦する。数年後、アメリカに帰国するわけだが、南部の小都市であるテクサーカナには左翼の若者の居場所などあるはずもない。ニューヨークに活動の拠点を移して当地の音楽家との親交を深めたが、第二次世界大戦を迎えたアメリカでは、共産主義者に対する弾圧は次第に厳しくなり、ナンカロウはさらにメキシコへと移住することを迫られる。
メキシコでも作曲家として創作を続けていたナンカロウであったが、ここで彼は一転窮地に陥ることになる。というのも、当時のメキシコの音楽家にはナンカロウの作品はあまりにも難しく、彼のリズムへの探求が満足のいく水準で音になることがなかったのだ。頭の中にある音楽的アイディアと、散々な演奏のギャップ。これがいかにナンカロウを苦しめたかは想像に難く無い。ナンカロウは、今日の優れた演奏家の手にすら余るような、技術的に極めて難かしい作品を書いていたのである。
相次ぐ初演の失敗に失意の生活を送るナンカロウを救ったのは、テクサーカナの父親が残した遺産だった。ナンカロウがニューヨークで付き合っていた作曲家:ヘンリー・カウエルの著書「新音楽の源泉」には、人の手に余る複雑な作品を自動演奏機械で演奏するアイディアが記載されていた。これがナンカロウにとっての天啓となり、彼はプレイヤー・ピアノという自動演奏機械に、自分の創作の行く末を賭けることを決意するのである。
自動演奏機械の歴史は、レコードの歴史よりも長い。自動演奏機械というといかめしく聴こえるが、たとえばオルゴールを思い出せば、人の手を使わず音楽を奏する機械というものが随分昔よりあったことが理解できるだろう。19世紀にはピアノやヴァイオリンの自動演奏機械が生まれていたし、レコードやラジオが普及する以前のアメリカの上流家庭にて、今で言う音楽鑑賞の用をなしていたのが、上で触れたプレイヤー・ピアノという自動演奏機械である。
プレイヤー・ピアノの形は通常のピアノとほぼ同じであるが、ピアニストの演奏を記録する機械が付随している。といっても、この機構を担うのは「紙」である。ピアニストの演奏によるキーアクションに呼応して、ピアノロール呼ばれる記録用紙が一定の速度で送られつつ穿孔され、この孔の空き方によって演奏を記録するのである。レコード以前の演奏家によるピアノロールも現存しており、これによって、例えばグスタフ・マーラーのようなレコード以前の作曲家やピアニストの演奏を私たちは聴くことが出来る(実際、再生環境を整えれば、驚くほどの精度で再生を行え、これの愛好家が多いことも頷ける)。
記録済みのロールをセットすれば、空気を利用したシステムが穴の位置を読み取り、鍵盤を自動的に動かし演奏を再生することも出来る。さて、通常、ピアノの鍵盤を弾くことでロールを穿孔するプレイヤー・ピアノであるが、ナンカロウは、ロール自体を直接穿孔し、これをプレイヤー・ピアノで再生することで音楽を奏でようと考えた。これならば人間の指が10本しかない、という限界を気にしなくてもよいし、人間技を越えたフレーズを演奏させることも出来る。さらに重要なことは、人間が演奏するとどうしても曖昧になってしまうリズム、たとえば、4拍を均等に7つに分けるようなものでも、ロールを幾何的に分割することで演奏させることが出来るのである。
1940年代の終わりくらいからナンカロウはプレイヤー・ピアノのための「習作」という連作を書き始める。その内容といえば、1950年代初頭の時点で既に15年後のフリージャズを予見しているかのような驚くべきものだった(これを聴かせたあるジャズ批評家は、楽曲の制作年代を15年後だと誤解した)。若い頃にジャズ・トランペッターとして活動した経験と、ストラヴィンスキーのリズムの試みをさらに推し進めた複雑で生気あるリズムが幸福に結びつき、メキシコシティのプレイヤー・ピアノは未だ誰も踊ったことのないダンスを踊った。
ナンカロウはコツコツと作曲を続けた。当初は、同じ旋律が5:6:7の音価でカノンを奏するような、人の手でもどうにか演奏出来ないこともない(といっても相当に難しい)、といった風情の音楽を書いていたが、そのポリリズムの探求は時代を進む毎に複雑になり、無理数比のカノンなど、どうしたって人力では演奏出来ない世界へとなだれ込んでいった。しかしながら、机上での発想をプレイヤー・ピアノで検証しつつ続けられるナンカロウの創作は、決して晦渋なものになることはなかった。その点については、どれだけ強調してもし過ぎることがない。
しかしながら、こうした輝かしい成果にも関わらず、ナンカロウの作品は1970年代に一部がレコードになった程度で、驚くべきことに、殆ど誰にも知られないまま放置されていた。マイルス・デイヴィスやフランク・ザッパといった同時代のポリリズムの担い手はおろか、クラシック/現代音楽の作曲家たちすら、メキシコでかくも恐るべき音楽が生まれていることを知らなかったのだ。
転機は偶然にやってきた。1980年の5月、パリのレコード屋で一人の作曲家がナンカロウのレコードを求めた。ちょっとした好奇心から無名の作曲家のレコードを求めたこの作曲家は、帰宅後にレコード盤に針を落とし驚愕する。「これはアイヴズ、ヴェーベルンに次ぐ音楽史上の発見である」。彼は後にそう記すことになるだろう。この作曲家こそが、ジェルジ・リゲティであった。
リゲティは、その作品がスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のモノリスのテーマとして使用されるなど、同じ現代音楽の作曲家でもナンカロウとは比べ物にならない有名人であった。彼に「発見」されたことにより、このメキシコの作曲家は瞬く間に世界中の作曲家の知るところとなる。楽譜が一流出版社から出版され、卓越した技術を持つ演奏家が世界中からナンカロウのもとを訪れた。かつての演奏が無残に失敗し続けていた初期の作品も、水準以上の演奏で再演するようになり、それ故に、80年代のナンカロウは再びプレイヤー・ピアノ以外の人が演奏する作品を再び書き始めることになる。
その後も、ナンカロウはリズムの探求を史上誰もがなし得なかったレベルで続け、1997年にメキシコシティで没した。ここ数年、ナンカロウの作品を、プレイヤー・ピアノ・システムを搭載したベーゼンドルファーのグランドピアノで再生したCDがリリースされ、この作曲家の業績をさらに美しい音質で聴くことが可能になった。というのも、従来リリースされていたCDでは、通常ナンカロウが使用していた楽器ではないサブの楽器を使って録音セッションが行われていたため、音色が金属的かつ貧弱になり過ぎていたというのである。確かに、新録音版で聴くと、音色がより豊かになったことにより、あたかも音の数が格段に増えたかのような印象すら受ける。
それにしても、ポリリズムの探求に当たって、ナンカロウがプレイヤー・ピアノに巡り合った幸運を改めて思う。このピアノより少々固めの音色を持つ楽器だからこそ、相互に噛み合う声部それぞれの輪郭が強調され、決して全体の中に埋没せずに私たちの耳に届けられるのだ。そして、骨董品のようなプレイヤー・ピアノを縦横無尽に使用したナンカロウの仕事は、そのジャズの香りも相まって、どこか懐かしく、どこまでも過激に私たちを揺さぶる。今、ジャンルを越えて聴かれるべき現代音楽というものを挙げるならば、ナンカロウの作品こそがそれである、と、筆者は自信を持って断言しよう。
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source: intoclassicsnet
Конлон Нэнкэрроу (1912-1997)
«Эта музыка – величайшее открытие со времен Веберна и Айвза… нечто великое и важное для всей истории музыки. Его музыка столь чрезвычайно оригинальна, приятна, совершенно сконструирована, но в то же время эмоциональна … для меня он лучший из всех композиторов, сегодня живущих» (Дьёрдь Лигети, 1981 г.)
«Американский композитор, большую часть жизни прожил в Мексике. Композитор сочинял музыку почти исключительно для акустической пианолы. В 1947-1948 годах Нэнкэрроу сконструировал особый вид механического пианино. Для этого пианино и написаны все его «Studies». Это короткие пьесы, построенные на сопоставлении множества самостоятельных линий, с разной метрической, ритмической и темповой активностью. Пьесы отличаются разнобоем голосов, слуховой иллюзией строго высчитанной, быть может, сериальной музыки, но с мягким, подчас блюзовым звучанием.Как правило, «Этюды» идут в очень быстром темпе и насыщены мелкими длительностями, что делает их невозможными для человеческого исполнения». (Из книги Елены Дубинец «Знаки звуков»).
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source: dradiode
Als Conlon Nancarrow Ende der 1970er-Jahre von der Musikwelt entdeckt wurde, war das Staunen über den eigenwilligen Künstler mindestens ebenso groß wie die Begeisterung. “Nach den wenigen ‘Studies for Player Piano’ von Nancarrow, die ich gehört habe, versichere ich mit aller Ernsthaftigkeit, dass Conlon Nancarrow der bedeutendste lebende Komponist ist”, äußerte 1980 György Ligeti. Er war eine der ersten einflussreichen Persönlichkeiten, die sich so vehement für die Musik von Conlon Nancarrow einsetzten, sodass dieser bald als Sensation von Festival zu Festival gereicht wurde.
Glaubt man György Ligeti, ist der 1912 in Texarkana an der Grenze zwischen Texas und Arkansas geborene Komponist “die größte Entdeckung seit Webern und Ives”. Das ist umso erstaunlicher, da Nancarrow den größten Teil seines Lebens von den Entwicklungen der zeitgenössischen Musik keine Notiz genommen hatte. Seit er 1940 nach Mexiko emigriert war, lagen die Schauplätze der Avantgarde schlichtweg außerhalb seiner Reichweite. Er war ausgereist, weil er in den USA nach seiner Teilnahme am spanischen Bürgerkrieg zur Persona non grata geworden war. Nancarrow hatte gegen Franco gekämpft und war Mitglied der kommunistischen Partei.
Im mexikanischen Exil fand Nancarrow allerdings weder geeignete Interpreten noch Aufführungsmöglichkeiten für seine komplexen Werke. Daher entschied er sich, künstlerisch autark zu werden. Er habe seine Musik hören wollen, berichtet er später. Und da er ein zu schlechter Pianist sei, um sie sich selbst auf dem Klavier vorzuspielen, sei er auf das selbstspielende Klavier gekommen, das er aus seinem Elternhaus kannte.
Nancarrow erwarb sowohl ein mechanisches Klavier als auch eine Stanzmaschine. Um 1949 war die erste “Study” für Player Piano in Papier gestanzt, und vom selbstspielenden Klavier als Notbehelf bald nicht mehr die Rede. Im Gegenteil: Nancarrow entwarf immer komplexere Zeitstrukturen und Tempoverhältnisse. Er begann, die Freiheit zu genießen, ohne Rücksicht auf die physischen und geistigen Möglichkeiten menschlicher Interpreten zu komponieren.
Die rund 50 “Studies for Player Piano”, die er bei seinem Tod 1997 hinterließ, sind genuin mechanische Musik. “Meine Seele ist in der Maschine”, gab er seinen späten Bewunderern zu verstehen, die ihn immer wieder fragten, ob sein Werk nicht endlich auch von Menschen gespielt werden könne. Sei es nicht möglich, Temporelationen – wie in “Study No 6” – mit derselben Präzision wie ein Player Piano wiederzugeben? In dieser Study entsteht das eigentümliche rhythmische Pattern des Begleit-Ostinatos durch metrische Verschiebungen im Verhältnis 4:5. Die Oberstimme folgt wiederum ihrem eigenen Puls, sodass sich insgesamt eine Temporelation von 3:4:5 ergibt. Aber auch stilistisch lassen sich Melodiestimme und Begleitung kaum auf einen einfachen, gemeinsamen Nenner bringen. In dieser frühen Study begegnen sich Fragmente aus Blues, Tango und Flamenco. Die im Vergleich zu späteren Studies noch relativ überschaubare “Study No 6” hat der Posaunist Patrick Crossland für Bläser, Schlagzeug und Streicher eingerichtet. Um die gegensätzlichen Charaktere plastisch herauszuarbeiten, sind die Instrumente zu homogenen Gruppen zusammengefasst.
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source: lastfmes
Samuel Conlon Nancarrow (Texarkana, Arkansas, 27 de octubre de 1912 — Ciudad de México, 10 de agosto de 1997). Compositor mexicano de origen estadounidense que vivió en México a partir de 1940. Fue ciudadano naturalizado mexicano desde 1955.
Conlon Nancarrow es ampliamente reconocido por su obra monumental para piano mecánico. Esta obra despliega una gama tal de recursos constructivos y formales que lo sitúan entre los compositores más destacados del siglo XX. En su música se pueden identificar propuestas novedosas, como la orientación politemporal de la polifonía; el concepto de disonancia temporal (uso simultáneo de tempi distintos) y, con ello, la concepción de una polifonía derivada de secuencias melódicas independientes en sus Tempi. Nancarrow es uno de los compositores pioneros en este campo, junto con Henry Cowell y Karlheinz Stockhausen, entre otros, que plantearon problemas que hoy abordan los compositores actuales, estimulados por el uso de la computadora.
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source: brahmsircamfr
Samuel Conlon Nancarrow est né le 27 octobre 1912 à Texarkana, dans l’Arkansas, ville où son père, prénommé Samuel également, avait été muté par son employeur, la Standard Oil. Samuel Nancarrow en deviendra le maire entre 1925 et 1930. On peut encore voir son nom, sans doute d’origine galloise, sur plusieurs plaques et monuments de la ville. Indocile dès son plus jeune âge, Conlon est expédié dans une école militaire pour y apprendre la discipline. Au lieu de cela, il se retrouve « contaminé par le virus de la musique » et commence à jouer du jazz à la trompette. Nancarrow père expédie alors Conlon à Vanderbilt University pour qu’il y poursuive des études d’ingénieur. Mais Conlon n’assiste qu’à quelques rares cours et, de sa propre initiative, part s’inscrire au Cincinatti College Conservatory pour y étudier la musique. C’est là qu’il entendra le Cincinatti Symphony dans l’une des toutes premières interprétations du Sacre du Printemps aux États-Unis, un événement qui suscitera en lui cette fascination pour Stravinsky et pour le rythme qui ne devait plus le quitter.
Il déménage ensuite à Boston, où il suit, en privé, l’enseignement de Roger Sessions, Walter Piston et Nicolas Slonimsky. Il y a peut-être croisé la route d’Arnold Schoenberg qui venait de s’expatrier (Nancarrow a toujours dit n’avoir pas souvenir d’une telle rencontre mais sa première femme a affirmé qu’elle et lui s’étaient rendus à une soirée dans l’appartement de Schoenberg, à Brookline). À l’époque, comme beaucoup d’artistes américains des années trente, Nancarrow adhére au Parti communiste, ce qui l’amène à participer à la Guerre civile d’Espagne en 1937-1938 avec la Brigade Abraham Lincoln. Il reçoit un éclat d’obus dans la nuque, réussit de justesse à prendre la fuite à bord d’un avion-cargo qui transportait de l’huile d’olive, et sera acclamé en héros à son retour dans l’Arkansas, par des gens persuadés qu’il était parti pourfendre le catholicisme. Reparti pour New York, Nancarrow y fait la connaissance d’Elliott Carter, Aaron Copland, John Cage et Wallingford Riegger. Mais, apprenant que ses camarades étaient inquiétés par le gouvernement américain à cause de leurs accointances communistes, il s’expatrie à Mexico City en 1940.
Toutefois, il ne manque pas d’emporter le livre d’Henry Cowell, New Musical Resources, qu’il avait acheté à New York City. Une véritable révolution. Ce livre élaborait en détail une nouvelle approche de la complexité rythmique et suggérait d’utiliser le piano mécanique pour automatiser l’exécution. En 1947, Nancarrow reçoit une somme d’argent provenant d’un fonds en fideicommis laissé par son père. Il l’utilisera pour retourner à New York City et acheter un piano mécanique. Il visite également la maison QRS, une société du Bronx qui fabriquait des rouleaux pour piano mécanique. C’est là qu’il découvre une machine permettant de perforer des rouleaux à la main et trouve un ouvrier qui accepte de lui en réaliser une copie. À ce stade, entre 1930 et 1945, Nancarrow avait composé un peu moins d’une douzaine d’œuvres brèves pour des instruments traditionnels : quelques pièces pour piano, un septuor, un quatuor à cordes, une toccata pour violon et piano, une pièce à plusieurs mouvements pour orchestre de chambre. La plupart abordait l’écriture à plusieurs tempi ou comportait, au moins, des idées rythmiques complexes. Les rares fois où il avait essayé de les faire interpréter, Nancarrow avait été refroidi par la piètre qualité technique du résultat. Par la suite, de retour à Mexico City, dans un studio construit avec l’argent de sa seconde femme – qui était peintre et travaillait comme modèle pour Diego Rivera–, il s’attelle pour de bon à l’écriture d’une série d’études pour piano mécanique qui lui permettront, espère-t-il, de laisser libre cours à sa créativité rythmique.
Nancarrow envoie une partition de son Étude rythmique n° 1 à Elliott Carter, qui en citera un extrait à titre d’exemple, dans un article qu’il intitulera “The Rythmic Basis of American Music”. Cet article sera publié dans le magazine The Score, en juin 1955. Vers 1960, un enregistrement sur bande des premières études de Nancarrow tombe entre les mains de John Cage. Cet enregistrement sera utilisé par son compagnon, Merce Cunningham, comme support à un spectacle chorégraphique. Les pièces qui avaient servi à ce spectacle seront ensuite gravées (1969) sur un disque Columbia qui ne connut qu’une existence éphémère.
À part ces deux épisodes et un commentaire d’Aaron Copland sur ses premières pièces, Nancarrow ne connaîtra pas d’autre manifestation d’une quelconque reconnaissance avant l’âge de 63 ans. L’année suivante, en 1976, Charles Amirkhanian commence à mettre sur le marché les enregistrements du compositeur sous son label, 1750 Arch. En 1981, Nancarrow obtient un visa et se rend aux Etats-Unis pour la première fois depuis les années quarante. Au cours des années qui suivent, il sera mis à l’honneur au Cabrillo Festival, au festival ISCM de Graz et lors d’autres manifestations, à Innsbruck, à Cologne et à l’Ircam. Il s’y rendra parfois en compagnie du compositeur György Ligeti qui qualifiait ainsi sa musique : « la plus grande découverte depuis Webern et Ives… tellement originale, agréable, parfaitement construite mais également émouvante… Pour moi, cette musique surpasse celle de n’importe quel compositeur vivant aujourd’hui. » (Lettre à Charles Amirkhanian, 4 janvier 1981, Vienne).
À mesure que s’étend cette popularité nouvelle, les commandes d’interprètes reprennent. Ainsi, Nancarrow se remet à écrire pour de vrais instrumentistes, pour la première fois depuis 1945. Il écrit deux pièces pour piano, Tango? et Three Canons for Ursula, une Pièce n° 2 pour petit orchestre, un deuxième trio et, pour le Quatuor Arditti, un Quatuor à cordes n° 3, d’une prodigieuse difficulté.