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RURIKO MURAYAMA

村山ルリ子
무라야마 루리코

source: kanazawa21jp

Born in Akita, Japan in 1968. Lives there.
In the early 1990s, Murayama Ruriko relocated from Akita to Tokyo, where she studied batik on her own while working in stage design. From the late ’90s, Murayama began showing works created by cutting silk cloth dyed with chemical dyes into small pieces and painstakingly sewing them together. From the early 2000s, she embarked on the production of her “Collective Charms” series of objects covered lavishly with beads, pearls, artificial flowers, lace, and other materials obtained at handicraft shops. Her “Collective Charms” series works have gradually multiplied and mutated into bustiers, dresses, arm-shaped works and other variations closely fitting the form of the body.
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source: cna4artcn

Murayama Ruriko was born in Akita Prefecture, where she lives now. She dyes fabric by hand and sews them into stitching works. She also makes bead work, handmade flower and various accessories and puts them together to form an improvisatorial stereo work. She has cooperated with many brands. Apart from art circle, she is a topic character in fashion world as well.Her major exhibitions include: Roppongi Crossing held in Mori Art Museum in Tokyo in 2004; Along with Me held in Circulo de Bella Artes in Madrid in 2006; Rope-Knot and Modernity—— The Connection of Two Age: Body and Soul held in Aomori Prefecture Art Center in 2006; One Stitch After Another held in Tokyo Metropolitan Teien Art Museum in 2009. She is an artist active both at home and abroad.
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source: adnet-sakigake

 秋田生まれ、秋田育ち。高校卒業後は地元の眼科医院に勤めたが、制作への欲求から二十二歳で上京した。
 東京での二十代の生活は波乱に富んでいた。演劇、音楽、映画などの関係者と交流を深めながら、アルバイトのかたわら独学で線画やろうけつ染めの染色画、舞台美術などを手がけ、自分の表現方法を模索した。
 そのなかでたどり着いたのが、色そのものを見せる染色した布の作品群だ。長い絹布を化学染料で染めて鮮烈に「自分の色」を出し、それを天井から吊り下げて、即興的に選んで切り裂いてはミシンで縫い、また切り裂いては無造作につなぎ合わせていく。染め上げ、縫い込んださまざまな「色」の大きさが気に入らなくなれば、さらに細かく切り刻み、色と色をつないで何度も縫い重ねていく。つぎはぎされた色は複雑化し、より過激で奇抜な色彩へと変ぼうして見る者の感覚を鋭く刺激する。かと思えば、透き通るように穏やかな一色の絹布をいくつも会場に吊り下げて、記憶を呼び覚ますような色との出合いを演出する。こういった布の作品やインスタレーションからなる個展は「色のおしえ」と名づけられ、1996年から98年にかけて主に都内のギャラリーで開催、村山作品のひとつのシリーズを作り上げた。

「奇麗の塊」の誕生

 その後、体調を崩したことがきっかけで拠点を秋田に移したのが転機になった。それまでも、制作は秋田市内の染織材料店の工房と自宅で行っていたが、東京から本格的に秋田に移ったことで制作に没頭できた。2001年のグループ展「オプ・トランス!」では、自身が「モザイク」と呼ぶ無数の色を細かく縫い合わせて一枚にした絹布の作品を制作した。縦3メートル、横5メートルにも及ぶこの大作の制作に精根を使い果たし、疲れた体を癒すように作り始めたのが「奇麗の塊」だった。
 ビーズやスパンコール、アクセサリー、羽根、天使やマリア像などのきらきらとした素材をホットボンドで土台に接着し、それを繰り返していく。小さなものから作り始めた「塊」は進化が速く、作るたびにめまぐるしく変わっていったという。
 制作の息抜きに何気なく始めた「塊」の作品群は02年ごろから注目を集め、03年にはプラダの依頼で布地を土台にしてバッグを制作。さらにコムデギャルソンの2004春夏コレクションには、村山作品をもとにしたデザインをプリントした花柄のスカートが新作として登場するなど、ファッション界でも熱い視線を浴びた。「色」を見せてきた絹布の作品群と違い、見る人が受け入れやすかった「奇麗の塊」がきっかけで、村山作品は現代アートシーンのなかで大きく動き出した。

「奇麗の塊」を構成する素材は、ビーズやスパンコール、造花、ブローチやネックレスなどのアクセサリー、天使やマリア像など、日常生活のなかで「きれい」と思ったモノたち。きらきらと光る素材やミニチュアが色彩のなかにうもれている
つかみ取った「命」

 「モノって、絶妙のタイミングで世に出たり、つぶされたりする。どれぐらいタイムラグをもたされるかは、人によって違うもの」
 昨年から勢いが衰えない現代アート界やファッション界での活躍にも冷静だ。そして、作品への執着はまるでない。「作品を作り上げた瞬間、終わってる。できあがった作品を見るのは、残骸を見ているようで苦痛なの」という。村山 留里子の手を離れ、「残骸」となった作品たちは、制作者から奪い、つかみ取った命で圧倒的な存在感を持つ。狂気や殺気、毒気や色気など刺激的な感覚とともに、喜びや悲しみ、慈しみ、はかなさ、美しさなどの感情や記憶を、色彩という光のなかにちりばめて歌い出す。